空っぽのインタラクション

インタラクティブアートって、結局手法以上の何者にもなれなかったなぁ、ということを考えていた。

インタラクティブがもてはやされた時期があって、業界の人がそろいも揃って全然面白くないインタラクティブアートを量産していたことがあった。手法としてインタラクティブアートなんだけれど、特に何も実現していない、デジタルの枠組みでビジュアライズしましたよ、というようなのが大量にあった。

自分はその頃学生で、インタラクティブアートで食べていけないかなあ、ということを薄ぼんやりと思っていたのだけれど、あんまりアートじゃなかったのもあって、実際に受験とか就活とかでは売りには出来なかった。

インタラクティブアートは、インタラクティブアートやってる人の中で消費していかれる感があって、まあ長続きしないんだろうなという所は心の隅にあった。アート愛好家の中にインタラクティブアートを居間に飾りたいという人は居ないだろうし、かといって一般に幅広く流通するものでもない。技術畑から生まれて技術畑の土に帰っていくような、そんな技術デモ的な作品ばかり生まれては消えていったように思える。

特に何が出来る訳でも無く、インタラクションのみ存在するのがいけないのだと思う。坂本龍一のライブやらでWebからライブに拍手を送信できるようなのや、演奏内容をビジュアライズするようなのがあったけれど、inの大きさの割にoutがpoorだった。観客の反応がデザイナーの意図したものに作り替えられていただけだ。出来ることが増えたわけでもなく、単にインターフェースのみ増えた。

「ソーシャル」っていう言葉も、インタラクションやリアルタイム性を含むものだけど、それによって人とつながることが出来る。単なる「インタラクティブ」とは全く広がり方が違う。

それによって何か新しいことが出来る、ということが重要なんであって、スイッチを押して干渉出来ることは、僕らにとってさほど関心のある事柄ではない。

これから作るものは、スイッチを押したり出来るようなものではなく、環境を作ることをイメージしないといけないと考えている。それがコミュニティなのか、ゲームなのか、ツールなのか分からないけれど、minecraftのような、MMDのような、誰かの可能性を広げてあげられるような環境が必要だ。(とかいうと、Google Waveやらなにやらの爆死を思い出して、そうも言い切れない気がしてくるのだが…。)