老朽化する構造物としてのコミュニティ

物理は心理を書き換える。仏壇みたいにそれ以外の使い道が思い浮かばない、それを改造して何かに役立てることも難しい物体に生活空間の一部を浸食された人は、「それがある暮らし」を、ある日一方的に押し付けられることになる。そこからの影響から自由になるのは困難で、結果はおそらく、ある程度予測が立てられる。仏壇や学校の制服、何かを象徴する巨大な建築物や、道路みたいなものもまた、人の心理を大きく動かす。 土木を始めとした物理環境の改変もまた、政治力そのものなのだと思う。どれだけ厳しい法律を作っても、その正統性を声高に叫んでも、それを作った人間に対する信頼がないのなら,言葉や文章は響かない。それが文章でなく土木であったのならば、どれだけ嫌いな、信頼できない人間が造った建築物であっても、それがそこにあれば、誰もがそれを前提にした振る舞いをせざるを得ない。ある状況を否が応でも押しつけるだけの効果が土木的な何かにはあって、失われた信頼は、言葉や文章、行動ではなく、土木的な何かを用いることで再構築ができるのだと思う。

物理的な物体について論じている文章だけれども、Web上の構造物に置き換えてアイデアを探る。

しばしば土木的にサイトが生まれ、その環境への好き嫌いを元にシーンが構築されていくように思われる。弾幕型しかり、VORCしかり。とにかく屋台骨がなければ、議論も始まらない。議論がコミュニティを良くしていくということをやまもとさんが書いていて、やはり場所を用意することが肝要と改めて思う。

問題は、法律であれば運用に費用は発生しないが、物質は老朽化するし、コミュニティは3年もすればコミュニティは新陳代謝が止まり、少なくとも先端の気概は失われてしまう。ある程度の継続努力が必要であるが、そもそも定期的に捨てていくようなモノですらあると思う。

コミュニティを総括し解体することも、新陳代謝を生み出す意味で一定の意義があるが、コミュニティ解体と同時にシーンが死んでしまう可能性も高い。コミュニティはむしろ、よりスマートなモノに取って代わられる必要がある。そもそも体力や、潜在的な発展性の低いコミュニティだとリプレースが出来ないので、そのまま死んでしまう。

手段としては、競合を自ら作り出すか、権威化してWikipediaにでも書いておき、シャットダウンする、というところだろうか。